2011年09月04日

砂粒ほどの可能性

今夏すっかり忘れてて、今になって気がついたのですが。

俺の所属するバンド、Freaky Jammin'、8月で9年目に突入なんですね。

んまぁ突入といっても、昨年7月を最後に活動を停止してて、最後の音合わせからもう1年ぐらいバンドでリハもやっとらんし、メンバーとも殆ど顔会わせてないし。

で、こういう状況をもってして、結成9年目突入などと言っていいのか、はっきり言ってわからん・申し訳がたたんというのもありますが、とりあえず解散やら脱退やら表明されてないから、まだバンドは継続しとる、ということなのでしょう(笑)

活動停止の元凶である俺なんて、とっくにクビにしてもらって構わん感じなんですが。

俺がおることで、このバンドの持つ可能性がすべて遮られているのは明白なんで、俺抜きで活動してくれても一向に構わんのですがねぇ俺としては。つか俺抜きで活動すりゃいいのに他のメンツは素晴らしいセンスや腕しとるんだし、と思うんですがねぇ俺としては。

んまぁそんな感じです。

blogからも伺えるかと思いますが、俺自身が既に、この住む街の多くに失望し背を向けはじめている現状にあっては、たとえ音楽的なスランプを抜けたところで、このバンドで弾く可能性は今後極めて低いと言ってもいいかもしれません。

再起をのぞむ声も巷にはある、という話も夏場にメンバーから伝え聞きましたが、それは間違いなく良い意味ではなく、悪い意味でのそれでしょう。俺が復帰すれば、オーディエンスにとっては小馬鹿にできる・笑い者にできる格好のターゲットが、またステージにあらわれるわけですからね!

そんなこんなで、地元の空気とすら相容れない現状にある俺が、再度このバンドで弾く可能性は極めて低いと思われる…

でも。
「低い」というのは「無い」というのとは違うのも確か。ほんの僅か…それは砂粒ほどかもしれませんが、こうして脱退の報も解散の報も現状ないというのは、再度弾く可能性がゼロというのとは違う、ということです。

現状としては、音楽的に難しい時期・ヤマはほぼ乗り越えたかな、という感触はありますが、メンタルに負った傷は、ちょっとやそっとじゃ癒されんのもまた現実なわけで、ここら辺は、それこそ人と人との意思疎通とか、ヒューマンライクな面において、非常に難しい壁ですね。しかも悪いことに、活動の本拠が小さい頃からの積み重ねで何から何まで大嫌いなこのクソ故郷。修復には相当な時間と険しい道程を要すのは火を見るよりも明らか…

それらすべてを受け止め抱きしめ、雑音や嘲笑をすべて黙殺してリハーサルにステージに挑めるだけの強さ、それさえ俺に備われば、再度、このバンドで弾くはこびになるでしょう。それが「砂粒ほどの可能性」という言葉にこめた、俺なりの気持ちです。

そしてそれが可能になる唯一の術は、やはり楽器がうまくなること、これしかないように思います。どんなに人間性がクソボケでも、巧けりゃあ少なくとも音紡いどる時には機能するわけですからね。逆にどんなに人間性が良くても、ヘタクソならどうにもならんわけです。つけ入られる格好の隙間を作っちまうことになる。これまでの俺が、まさにそう。

沈んでた時期には楽器をみることすら嫌でね、楽器も殆ど処分しちまった。今や5弦一本しか手元に残してないんだよな、俺。

その5弦をここにきてようやく手にとり、弾くところまで持ち直してきました。

ヘタクソということは、それだけ伸びしろがまだ無限にある、ということ。そう捉えれば、これからが真に面白くなる、スタートラインなんかもしれませんね。

FJで弾くかどうか云々は別にして、やっとこさ気持ちが音楽に戻ってきたことだけは確かですよ。

すべては沖縄での再会があったからに他なりません。感謝してますニコニコ


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